今日は学習障害(LD)と呼ばれているものをテーマに、子どもたちの教育について触れてみたいと思います。学習障害の子どもたちだけではなく、すべての子どもたちに必要な教育のあり方のヒントが、実は学習障害というものから導き出せるように思えるのです。
みなさまの周りに、特に著しい知能の遅れはないんだけれども、ある特定の学習になるとどういうわけか大きくつまづいてしまう子どもはいませんか? たとえば、計算はかなり速く正確なのにもかかわらず、文章題になるとまったく何を問われているのか意味が読み取れなかったり、また、書き言葉によるコミュニケーションはなんら問題がないんだけれども、会話になるととたんに途方にくれてしまうような子どもたちがいます。
学習障害とは1999年に当時の文部省によって次のように定義されました。
「学習障害とは、基本的には全般的な知的発達に遅れはないが、聞く、話す、読む、書く、計算する又は推論する能力のうち特定のものの習得と使用に著しい困難をしめす様々な状態を指すものである。
学習障害は、その原因として、中枢神経系に何らかの機能障害があると推定されるが、視覚障害、聴覚障害、知的障害、情緒障害などの障害や、環境的な要因が直接の原因となるものではない」
柘植雅義さんの『学習障害(LD) 理解とサポートのために』によると、(1)知的発達に遅れがないこと、(2)学習面で何らかの特異な困難があることが分かれば、学習障害(LD)と判断されると述べられています。
この本の中では次のような子どもが登場します。
小学4年生のA君はメモなどによる文字を介した相手とのやり取りは問題ないんだけれども、文字を介さないやり取り、すなわち会話になると耐えられなくなってしまうのです。「昨日はどうだった?」というような、つかみどころのない質問をされると、身体をゆすって目をそらし、関係ないことを話し始め、ついにはその場を立ち去ってしまいます。
そんなA君に電話スキルを身につけてもらうにはどうすればいいでしょうか?
電話といえば、まさに文字を介さない話し言葉によるキャッチボールです。A君が最も苦手とするところであります。
それでどうしたかというと、A君は話すことはキライだけれども、文字への関心はとても強いですから、それを逆手にとって、電話での会話パターンを紙に印刷し、それを使いながら話すようにしました。この形であれば、A君には無理がなく、むしろ進んで電話応対をするようになったのです。
この例であれば、苦手なことと得意なことがよく表れていますよね

A君は会話は苦手ですが、文字が入ったやり取りは得意なのです。これは想像になりますけれども、たぶんメールやチャットなどはお手の物といった感じでしょうね。
学習障害というのは、こんなふうにも言えるわけですね、得意な部分と苦手な部分の差が大きい。あることにはとても優れた能力を発揮するが、別のあることになると途端に立ち止まってしまう。そのような特徴があるわけです。
こういった子どもたちからどんなことを学ぶかというと、注目したいのは、まずはその子がどういった特徴を持っているのか知ることが大事だということです。これはすべての子どもたちに同じものを同じように与える画一的な教育スタンスでは対応できないということです。
考えてみれば当たり前のことなんですけれども、うどん屋さんに行ってスパゲッティを求めるのは、ずれちゃってますよね。スーパーに行って薬が売ってないというのも、もしかしたら今のスーパーはなんでも置いてあるかもしれませんが、薬を買うなら薬局かドラッグストアにみなさん行くんじゃないでしょうか。
これが子どもに対しては、どういうわけか、うどんならうどんだけしか食べさせないで来たわけです。じゃあスパゲッティを食べたい子どもはどうすればいいのかというと、ほかにスパゲッティを食べられるところがあればいいのですが、そのような場所もなく、問答無用でうどんを食べなさいと。食べられなければ来なくてもいい、と言ったら言いすぎかもしれませんが、そのような制度がメインストリームとしてありました。
しかしこれにはメリットもあるんですね。全体的にある一定の学力レベルを身につけてもらうには、とても効果的であり、しっかりついていけば間違いなく力がつくようになっているんです。
ところがどうもそのようなやり方だと、すべての子どもの成長につながらないということになってきている、そのようなことに気づき始める人が増えてきたということです。
これは、すべての子どもたちは実はニーズを持っているというふうにとらえられます。ビジネスを始めようとする、もしくはやっている人ならよく分かると思いますが、自分が提供しようとするサービスなり商品が誰のニーズにかなうのかを必ず考えると思うんですね。そのサービスはある人は嬉しがるかもしれませんが、別の人にとっては必要ないかもしれません。
たとえば、いま小学6年生は算数で対称になる図形について学んでいますが、図を見てぱっと分かる子もいれば、説明を聞いても分からない子だっていますし、折り紙でその形を作ってみて自分でいじりながら理解する子もいます。説明をして分かる子であれば説明をすればその子のニーズにかないます。折り紙を使って理解していく子は折り紙を使って学ぶニーズを持っています。それぞれの子どもは別々のニーズを持っているわけです。
これはまあ大変なのです。子どもによってニーズが違うということは、それらすべてに対応しようとすると、時間もかかるし、人手もかかるし、人によってはそんな面倒なことを、という方もいらっしゃると思います。
しかし、教育というのは本来すべての子どもたちが成長していくことであり、そのときにこれには対応するけど、これには対応しないということでは教育とはいえません。もちろん、役割分担というのは必要です。一人ですべてできるなんてことはありませんから、子どもたちが選べる選択肢を広げ、なおかつその子がどういった特徴、ニーズを持ち、どのような環境が適しているのかを見抜き、導くことが必要になります。
このさまざまな人たちがさまざまな価値観で生きている社会では、一律のものは何の役にも立たず、しかしながら、そういった価値観すべてが共有している核のようなものも打ち出して大きなまとまりをつける、そのようなことが求められているのが現代です。
そのときに、お互いの違いを認め合い、押しつけではなく、すべての子どもたちが喜びを持って成長していける、そのような愛にあふれた教育の姿が増えていけば私たちにとって幸せなことだと思います。
ねっと学習教室
http://www.nsc-3860.com
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